指名される技術

 

 

男はなぜ六本木のクラブに行くか?が面白かった

客の大半はこの「主役になりたい願望」で来ると六本木のYママは言う。
彼女が言うには一般の男性が主役になれる瞬間というのは、人生でも数えるほど多くないそうで、せいぜい自分の結婚式と、誕生日と、人事異動したときの送別会のカラオケで歌うときくらいだそう。毎日働いても、朱やうになれる機会はその程度しかない。だから年齢を増すとともにこの「主役願望」が増大するらしい

 

コンビニ人間 村田沙也加

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 ○要約

主人公の古倉は幼少の頃より周囲と馴染めずにいた社会不適合者だったのが、
大学時代にコンビニでアルバイトし始めることにより
社会の一員として認められた感覚が芽生え、ついには彼女のアイデンティティの全てがコンビニに依拠する状態になる。
36歳になったいま、未婚でコンビニでアルバイトという状態について周囲から不安な目で見られているのは理解しているが何をどうすればよいのかわからない。
しかし、最終的には自分は「コンビニ人間」で良いんだと再確認する。

 

○感想

仕事を自己のアイデンティティとすることは多かれ少なかれやっていると思うが、

ここまで「コンビニで働くこと」を内面化にすすめている主人公に恐ろしさを感じる。

ある種「職人」としての誇りも感じれれず、ただ単に身の振る舞い方のマニュアルを与えてくれるからコンビニ店員としての自己に依存している。

 

 

 

佐藤優『資本主義の極意』 第一章

 

 

資本主義社会とは労働力自体が商品化されている社会のことだ。

コンビニのアルバイトもサラリーマンも自身の労働力を売っている。

 

労働力が商品化されるためには、2重の自由、つまり、身分制がなくなることと、生産手段からの自由(独力では商品を生み出させず、賃金労働者になる以外に生きていけないこと)が必要である。

 

日本資本主義の初期段階には以下の2点に特徴があった。

 

①農村が資本主義化しなかった(地主・小作人など旧来の身分制が残存し(、また小作人においては現物納が基本であった)

②国家が資本・技術導入において強く介入した

 

マルクス資本論は国家機能を捨象しているため、国家が資本主義を強く推進してきた日本のような後発の資本主義国家を分析するには十分ではない。そのため次章からは宇野の『段階論』の視座でもって日本資本主義を解説する。

 

 

佐藤優『資本主義の極意』 カネはどのように生まれるのか?

 

 

カネはどのように発生したのか?

マルクスは言う、資本主義社会は商品の集まりでできている、と。

結論から始めるが、商品相互の関係から、カネが生まれた。

なぜならば、物々交換は面倒くさいからだ。例えば、自分が肉を持っていて魚が欲しい場合、物々交換するためには、魚を持っていて肉を欲しがっている相手を探さなければならない。この面倒くささを回避するため、ありとあらゆる商品と交換できる商品、ーーマルクス経済学的に言えば[一般的等価物]ーーつまりカネが生まれた。カネは歴史的には金や銀が利用された。 (『夜と霧』によればユダヤ人収容所ではタバコが一般的等価物にされていたらしい。スープ一杯はタバコ3本とかなんとか。)(カネも商品のひとつに過ぎないというのは、筆者個人的にすごい衝撃であった)

 

カネはいつでも商品に交換できるが、商品はカネに交換されるとは限らない。マルクスはそれをこう表現する。

商品は貨幣を愛する。

が、『誠の恋が平らかにすすんだ例がない』ことを我々は知っている。

 

カネはあくまでひとつの商品にすぎないのであるが、商品世界において王のように振る舞う。このため拝金主義がうまれるのだが、それはまた別の話。

佐藤優『資本主義の極意』精読 序章編

 

 

これから佐藤優『資本主義の極意』を、自分用の読書メモとして章立てでまとめていこうと思う。以下は序章のメモ。

Q.なぜ資本主義について学ぶ必要があるのか

A.資本主義社会で賢く生きていくために必要であるから。資本主義のカラクリを理解することで、サラリーパーソンがどれだけ努力して一生懸命働いても構造的に絶対に金持ちにもなれない理由がわかるし、逆に、どうすれば大富豪になれるかもわかる。また、資本主義は「長い人類史から見れば、特殊な現象にすぎない」ことが理解でき、生まれた時から空気のようにある資本主義社会を相対化することができるようになる。

 

Q.なぜ近代経済学ではなくマルクス経済学なのか?

A.近代経済学では資本主義を自明のものとして扱っているため、資本主義を皮相的にしか分析することができないため。近代経済学では商品・金・資本の存在を自明としている一方でマルクス経済学では商品・金・資本の成り立ちを根源から考察している。

 

Q.マルクス経済学のなかでもなぜ宇野経済学を学ぶのか

A.近代日本の資本主義を分析するためにはマルクス経済学だけでは不十分なため。つまり、マルクス経済学は国家の要素が捨象されているが、近代日本の資本主義は国家なしでは分析されえず、そのためには国家と資本主義との関連性を考察している宇野経済学が必要であるため。

綿矢りさ『大地のゲーム』学食のからあげについての注釈

 

大地のゲーム (新潮文庫)

大地のゲーム (新潮文庫)

 

 

 学生食堂のからあげは、実は理学部が実験用に捕まえた、大学周辺を飛ぶカラスの肉だ。だから安くてやたら大きい、と学生たちは噂している。からあげにかぶりつくと悪い油の匂いがするが、申し分なくジューシーだ。たとえカラスだとしても(綿矢りさ『大地のゲーム』新潮文庫p15)

 綿矢りさ早稲田大学教育学部出身で、筆者のOGになる。

 ところで早大近辺にある某お弁当やさんのからあげは、「大隈講堂にいるカラスの肉」という噂があった。お値段350円で確かに申し分なくジューシーだった。大地のゲームの学生食堂の設定は、多分その某お弁当やさんがモデルになっていると思う。

今でも営業しているので、また行ってみよう。

『海辺のカフカ』以降の村上春樹はあんまり好きじゃない

 

 

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 

私見では、村上春樹の小説は海辺のカフカがピーク。
以降の作品では、『アフターダーク』はまあまあ面白かったが、『1Q84』でオヤオヤっと思い、『色彩を持たない~』で頭を抱え、『女のいない男たち』に至っては最後まで読めなかった。
初期の作品は一人称で、だんだんと三人称を使うようになるのだが、海辺のカフカが三人称を使うどうかのちょうど境目だ。
三人称になってから文章の切れ味がなくなったように思える。
 
文章の切れ味がなくなった最大の理由は文体の変化だ。
処女作の『風の歌を聴け』で魅せた、かなり癖があるものの独特の中毒性がある翻訳文体が年々薄くなった。
バタ臭かった翻訳文体が消臭され、中和化され、癖がなくなったのは良いことのように思うかもしれないけれど、
翻訳文体だからこそ許されてきたキザったらしいセリフが、文体の中和化によって、日本語として読むには耐えないものになってしまった。
ちょうど、洋画の吹替ならば自然と耳に入るキザなセリフも、日本人の俳優が真顔で吐いてるのをみると背筋がザワザワすのと同じだ。
 
村上春樹の初期の小説は、日本が舞台だが、日本の匂いがしなかった。
そこが日本だとは読んでいて全く思わなかった。
たとえ実在する地名であろうと、それはあくまで架空の場所であって、僕が住んでいる生活の延長線上では決してなかった。
『女のいない男たち』では彼らが間違いなく実在する日本人のように思え、
日本人の顔をした登場人物がキザったらしいセリフを日本語で吐いている情景が頭に思いうかび、苦しくて最後まで読めなかった。
 
というようなことを、週末に『職業としての小説家』を読みながら考えました。
でもなんだかんだいって村上春樹の最新作は死ぬまで買うと思う。