佐藤優『「知」の読書術』

 

 

「知」の読書術 (知のトレッキング叢書)

「知」の読書術 (知のトレッキング叢書)

 

 

 本書は前半部と後半部で分けられていて、前半部は世界情勢について関連する「紙の本」の紹介をしつつ、いつもながらの佐藤節で解説してくれる。後半部は電子書籍を利用した効率的な読書法についてで、後半部が読みどころだろう。その読書法の要諦は以下の2点だ。

 

1.電子書籍は専用端末で読むべし

→読書しかできない専用端末ならばインターネットにあふれる粗悪な情報空間から隔離されて、読書に集中できる。

2.電子書籍は紙の本と併用して、2冊目として利用すべし

→紙の本を読んで育ってきた我々には、なんだかんだいって紙の本で読むのが一番効率が良い読書法。ただし、電子書籍はどこにでも持ち運べる「携帯図書館」であり、スキマ時間にスマホのゲームで遊ぶように、電子書籍で本を読み直せば本の内容が格段に身につく。

 少し疑問に感じたところもあった。それは青空文庫の使い方だ。「電子書籍の一番悪い使い方」として、「とにかく無料だからと青空文庫をどんどんダウンロードして読」むことを挙げる。その理由として、「漱石でも鴎外でも、現代人は『注釈』なしには正確に読むことができない」「たとえば、夏目漱石の『それから』の中には「天爵的」という言葉が出てきます。青空文庫には、当然、注釈がありません。」と述べる。

 うーーーむ、確かに青空文庫には注釈はありませんが、キンドルには国語辞書が入ってて、漱石・鴎外など明治の小説ならそれで十分対応できると思うんですよね。。。やはり、読者にはお金をだして本を買ってほしいと思うのが作家の性というやつなんでしょうか。

 違和感を感じたところとしてもう1点付け加えると、本書はおそらく佐藤優は書いてない。佐藤優にインタビューしたものをゴーストライターが再構成したんだろう。過去の著作の文体と本書では文体が違って、読んでて妙な違和感を感じる。あとがきに「編集協力をしてくださったライターの斎藤哲也氏にたいへんお世話になりました」と書いてあるし、つまりはそういうことなんだろう。

 

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

 

 失業して、雇われるだけの話。それが5ページに1回くらいのサイクルで最後までひたすら繰り返される。

職を見つける。業務中に酒を飲む、ギャンブル、盗む、喧嘩などの理由で解雇される。その合間に女とファックしたり、酒浸りになったりの無限ループ。
 
「クビだってこと、わかってるな?」
「上司の考えてることくらいお見通しですよ」
「チナスキー、おまえは1ヶ月間、すべきことをしなかった。自分でもわかってるはずだ。」
「おれは頑張ったのに、あんたが認めてくれないだけですよ」
「頑張ってないだろうが、チナスキー」
おれはうつむいて、しばらく靴を見ていた。なんて言っていいのかわからなかった。そして彼を見た。「おれはあんたに、自分の時間をやった。おれがあんたにやれる、ただ一つのもの・・・・・・。誰もが持ってるものを。時給たった一ドル二十五セントで」
「おい、働かせてくださいって頼んだのはおまえじゃないか。ここは第二の故郷ですって言ったろう」
「・・・・・・おれの時間のおかげて、あんたは丘の上の豪邸に住み、豪勢に暮らせるんだ。この取引でなにかを失ったやつがいるとしたら・・・・・・それはおれだ。そうだろ?」
 

フランシス・ウィーン『マルクスの「資本論」』

 

マルクスの『資本論』 (名著誕生)

マルクスの『資本論』 (名著誕生)

 
 『知的野蛮人になるための本棚』に紹介されて気になったので読んでみた。佐藤優が「本書はこれから資本論の標準的な入門書になるであろう。その理由は、著者のフランシス・ウィーン氏が幅広い教養人であり、マルクス主義者の世界内で通じる煩瑣なスコラ学の言葉ではなく、一般の読書人に理解可能な言葉でマルクスが『資本論』で伝えたかったメッセージを提示することに成功しているからだ。」と解説で書いているが、私には本書があまり理解できなかった。

    そもそもの話、労働者が搾取されるなんて当たり前の話で、どうしてそんなにもったいぶって書いてるのかよくわからない。それに、資本論で説明されているとされる資本主義の内在論理について、本書が上手く解説できているとは到底思えなかった。Why so?、So what?のオンパレード。もっとわかりやすい他の入門書を読むか、腹を括って資本論そのものを読むべきなんだろうと思った。

岡田尊司『マインド・コントロール』

 

マインド・コントロール

マインド・コントロール

 

以下は自分用のメモです 

 

マインド・コントロールする側の特質

イギリスの精神分析学者アンソニー・ストーや、アメリカの精神医学者で、中国における洗脳を扱った『思想改造の真理』、オウム事件を詳細に分析した『終末と救済の幻想』などの著者で知られるロバート・J・リフトンが、グルの特性として挙げている点を要約すると、次のようになるだろう。

①グルは不安定な精神構造を抱え、妄想症や神経衰弱、自己断片化などに陥る瀬戸際にいる。

②グルは啓示を受け、「真理」を悟ったという確信を抱いている。その啓示は、三十代か四十代の苦悩や病気の時期に続いてやってくることが多い。

③グルは弟子や礼賛者必要とする。脆弱な精神構造を抱えているために、自分を支えるために彼らの賞賛や尊敬を必要とするのだ。

④グルは、弟子に「不滅の感覚」を与える。それは、「死をもものともしない感覚」であり、「自分の限られた時間を超えて、無限に続く存在の偉大な連続の一部であるという感覚」でもある。

⑤グルは弟子にとって、親よりも重要な存在であり、弟子は仕事も財産もすべてを擲って、グルとその偉大な目的のために尽くすことが求められる。

 グルは、脆弱な精神構造に加えて、苦悩や病気の体験によって、極限まで追い詰められ、をこで啓示を得るという逆転をおこす。しかし、グルは真理を得た後も、自分一人の悟りによっては安定を得られず、弟子を獲得することによって初めて、自分の誇大な自己愛を支えるうことができる。弟子は、全てを擲って、グルとその理想に奉仕することが求められるが、その代償に弟子はグルと行動を共にすることで、不滅の感覚を与えられる。不滅の感覚は、グルの誇大な自己愛が抱いた万能感に由来すると考えられる。

 

 結局、宗教的カリスマも政治的カリスマも、自らが聖者や神となる以外には救われなほどに、誇大に膨らんだ自己愛を抱えた存在だと言える。矮小な自己愛しか持たないものにとって、見掛け倒しに過ぎないとしても、自身と確信に満ちて「真実」を語るものは、強烈なインパクトをもって迫ってくる。

 そして、自分もまた特別でありたいと願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子となることは、自分もまた特別な出来事に立ち会う特別な存在だという錯覚を生む。

 

マインド・コントロールを受ける人の特性

①依存的なパーソナリティ

主体性と判断力が欠如し、過度に周囲に気遣いをするようなタイプ。

親がDVを振るったり、アルコール中毒だったり、あるいは過保護だったりするケースが多く見受けられる。

②高い被暗示性

超常現象を信じる。

③現在、及び過去のストレス

特に近親者との死別直後など

④支持環境の脆弱さ

周りに親兄弟・友達・知り合いなどがいない、など。ex.上京直後の大学新入生

 

マインド・コントロールの原理

第一の原理 情報入力を制限する、または過剰にする

→これは勉強法にも応用ができそうな技術。刑務所みたいなところに放り込んで、本を参考書を一冊だけ与える、とか。

第二の原理 脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

→兎に角、寝させないとのこと。

第三の原理 確信をもって救済や普及の意味を約束する

以下の記述がイカす。

 救済者というものは、人々を現実的に救うというよりも、救いを約束するという構造をもっている。いついつになればとか、何かをすればとか、条件がつくのだ。本当に救う気があるのなら、先のことを約束などもせずとも、黙って救ってくれればいいのだが、それでは救世主は成り立たないのだ。最大の前提として、私を信じれば、救われるとだろうと、人々が信じることを要求する。ある意味、信じるということを介してしか、『救済』も起きないからだ。

第四の原理 人は自分を認めてくれた存在を裏切れない

第五の原理 自己判断は許さず、依存状態に置き続ける

→企業って、洗脳装置そのものではなか?たとえば某居酒屋では、閉鎖的な環境で長時間労働が強要され身体はクタクタ、マニュアル通りに作業することが求められ主体性を発揮する余地はなく、、おまけに労働する俺カッコイイみたいな価値観を上司が保証してくれるところでは。

 

無意識を操作する技術

 相手を直接説得すのではなく、善意の第三者を装い、間接的に仄めかす。「なろうと思えば、王にもなれるのに」

ミルトン・エリクソンのダブルバインド

たとえば子供に勉強をさせたいときに、露骨に「勉強しなさい」と言ったところで、あまり効果はない。共用されたと感じると、人は本能的にそれに抵抗しようとする。こうしたときに、ダブルバインド技法を使って、「国語と算数と、どっちからやろうか?」「宿題、ママと一緒にやる?それとも、一人でやる?」と尋ねると、子供は、大体どちらかを選び、すんなりと勉強に取りかかれる。

 

 

ミルトン・エリクソン入門

ミルトン・エリクソン入門

 

 

 

ミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチ

ミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチ

 

 

 

終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か

終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か

 

 

 

 

なぜ「小説」にしたのか(佐藤優『元外務省主任分析官・佐田勇の告白』)

 

  『国家の罠』で北方領土交渉と国策捜査の顛末について書いた佐藤優による、現安倍政権における北方領土交渉を題材にして「小説」化したのが本書である。

 『元外務省主任分析官・佐田勇の告白:小説・北方領土交渉』と、副題に「小説」と銘打っているが、本書は一般的な意味での小説ではない。文体は前作の『国家の罠』より少し柔らかめだが、それでもなお、小説を読んだというより論説文を読んだという読後感だ。どうしてわざわざ小説形式にしたのだろう疑問に思って読み進めると、「はじめに」のところに、こう書いてあった。

 

 この頓挫した後の北方領土交渉について、ノンフィクションで書くには、十分な情報が開示がされておらず、また、私が独自に得た機微に触れる情報をすべて披露すると、外交交渉で日本の立場を不利にする可能性がある。外交官であった者は、その後、どのような状況に陥ろうとも、自らが所属する国家の利益のために尽くすべきと私は考える。それだから、ノンフィクションで外交秘密や外交官のプライバシーを暴露するようなことはしない。

 

 要するに、『国家の罠』後の北方領土交渉についてノンフィクションで書くことは、大人の事情でできないと。だから、「小説」に擬制すると。ここでの「小説」とは、作り物、つまりフィクションという意味での小説であって、夏目漱石とか村上春樹とか、そういう類の小説ではないのです。

 

また「小説」という形をとることによって

 

 さらに外務省が持つ独特の文化、内部での陰湿な権力闘争についても、小説という形態をとることでかなり踏み込んだ記述をすることができた。

 

上記のことが可能になったらしい。 例えばP34にはこんな記述がある。

 

佐田が外務省の第一線で勤務していた頃、部下から真顔で「下月を殺したいと思うのですが、どうすればいいですか」と相談を受けたことがある。そのときは、「まあ、そう腹をたてるな。下月にだっていいとこはあるよ。決して悪党じゃないよ。もう少し、上になれば、余裕もでてくるから。どうしても耐えられないのだったら、ちょっと工夫して、下月を上から捻ればいいから、とにかくここは抑えてくれ」となだめた。もっとも今では、「ブタペシュトにいい殺し屋がいるから紹介してやる。中東かトランスコーカサスにでもおびき寄せて、殺せば足がつかないよ」と言って、イスラエルの友人から教えてもらった殺し屋の事務所の電話番号を教えればよかったと、佐田は少し後悔している。

 

 うん、これはもう立派な 殺人教唆ですから、さすがに実名では書けませんよね。それにしても、佐田さんの部下はなんでも(上司を殺したいとか)相談できる先輩がいて、とても羨ましいです。外務省って、とってもアットホームな職場ですね。

 

 ここまで色々書いておいてなんだが、本書がなぜ小説の形をとってきたのか、完全には納得できなかった。人名・名称以外はすべて真実であるかの様に思えるが、やはり部分部分に嘘を混ぜ込んであるのだろうか・・・あるとしたらどこだろうなどと思いを巡らせつつページを繰っていくと、最終章にこんなやりとりがでてきた。

 

「どうやって。外務省の人事に影響をあたえる術があるのか」

「そんなことなんか考えていない。それにあの組織は、例えば森田総理が人事で何か言えば、反発して、その意見だけは絶対に受け入れない。もっと効果的な方法を考えなくてはならない」

「しかし、久山のような、自己保身に固まった小官僚にどうやって影響を与えるのか」

「僕は作家だから、警鈴を鳴らす作品を書く。論文やノンフィクションではなく、小説だ。完全なフィクションで、モデルはいないという形で書く。タイトルは『小説・北方領土交渉』 にする。段階的にシグナルを出す必要があるので、書き下ろしではなく、雑誌に連載することにする。連載のタイトルは『外務省DT物語』にしようと思う」

 

 つまり、この小説はある現役の外交官を威嚇することが目的で書かれていたのだ。だからこの本に込められた真のメッセージはこの外交官にしか読めない。

 

この小説の想定読者は、たった一人だけなんですね( ̄ー ̄)ニヤリ

 

ってことでおしまい。

 

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千野栄一 『外国語上達法』

 

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

 

 【要約】

外国語習得のために必要なものはお金と時間である。覚えるべきものは語彙と文法であり、そのためには良い教科書、良い教師、良い辞書を確保すること。
単語は1000語を目標にひたすら覚えるべし。文法は、覚えなければならないのは文法のテキストに載っている変化表であり、それは煎じ詰めるとだいたいどの言語も10ページほどである。
 
【感想】
私は最近、瞬間英作文をやっているのだけれど、その効果が非常に高いと実感している。その実感から、外国語習得のためには、母語から外国語への翻訳をすることが、それも腕を組んで考えこんでするのではなく、パッと口から出てくるようになるまで鍛えあげるのがカギだと考えていたが、本書でそれを裏付けるような記述が出てきて自信を持った。
 
先生は各人に小さなノートを用意させ、それを単語帳にする。
授業の最初に、その時間で扱う文法事項の手短な説明があり、極少数の語彙が与えられてから授業が始まる。授業の圧倒的大部分の時間は、母語から外国語の翻訳に当てられる。まず語彙を覚えるための優しい短文が繰り返し当てられ、新出の語彙が覚えられたのが確認されると、その日の文法事項がその作文の中に組み込まれてくる。学生がたんごでつっかえると、すぐ小さなノートにその単語を書き加えることを要求し、更に、その語が入ったいくつかの文を訳させる。そのノートの単語は学期が深まるにつれて一人ひとりで違ってくるので、やがて生徒をあてるとき一人一人からノートを提出させ、それを見ながら作文が要求される。
授業は毎回、このプロセスの繰り返しである。極小数の単語(約20語平均)と少数の文法事項を学ぶだけで決して先へは急がないが、それまでに習ったことは確実に身につけさせるシステムといえよう。
 

日本人は英語が話せないとよく言われるが、その理由は簡単だ。英語を話す訓練を全くしていないからだ。私が通っていた中学高校では、英語の授業の7割以上の時間を英文和訳に割いていて、英作文はお飾り程度のものだった。英会話に至っては全くのゼロだった。
そもそも高校生が英語を勉強する理由はだいたいが試験のためだが、受験英語では、英語のインプット(リーディングとリスニング)が求められるだけで、アウトプット(ライティングとスピーキング)に関してはほとんど求められないない。大学受験合格のために最適化されている学校の授業では、当然軽い扱いを受ける。
英語を話す訓練をしていないならば、英語が話せなくても当たり前だ。高校生は今からでも瞬間英作文をやるのをお勧めする。
 

 

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

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本を速く読むには (加藤周一 『読書術』)

 

読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

 

 

世間には速読術の本が多いが、僕は基本的にそういう本は全部眉唾もんだと思っている。「速読」とは「速く読む」だが、そういった本が指南しているのはせいぜい「拾い読み」に過ぎない。だいたいが、雑誌や新聞を読むときのように、興味があるところだけ拾い読みしなさいとしか書いてない。もちろん、拾い読み自体を否定するつもりはない。ただ、それを「速読」と称するのに違和感を覚えるだけだ。

 

本書で逸脱なのは、速読することと、精読することはコインの裏表の関係にあると指摘したことだ。

「本をおそく読む法」は「本をはやく読む法」と切り離すことが出来ません。ある種類の本を遅く読むことが、他の種類の本を早く読むための条件になります。また場合によっては、たくさんの本を速く読むことが、遅く読まなければならない本を見つけるために役立つこともあるでしょう。ある1つの題目について、ある一つの領域の中で、どうしても必要な基本的な知識、また親しむべき考え方の筋道は、そうたくさんの種類があるものではなく、基本的なところを十分に理解し、基本的な考え方に十分慣れればその後の仕事がすべて簡単になるといって良いと思います。良い教科書はそういう知識を提供し、さらにそういう考え方さえも与えるように仕組まれています。学校の教科書や、専門家の技術の教科書は、一つの例に過ぎません。

要するに、速く読める本というのは、自分がすでに知っていることについて書いてある本だけだ。想像してみてほしい。大人になった今、小学校の教科書を読むことになったら、一体どれだけの時間がかかるのか?誰でもかなりの短時間で読み終えられるんではないだろうか。

 

本を速く読みたいと思うなら、まずは基本的な本を遅く読むしかない。受験生のときに同じ参考書を何度も何度も読み返したかのように。そのようにしてマスターした分野のあるならば、関連本については段違いに速く読むことができるようになるだろう。もっとも、速読できるような本が読むに値するのかどうかは別の問題だ。